モノで埋め合わせされた心が空っぽの人々

小学生の頃大好きでよく観てた映画「クレヨンしんちゃんモーレツオトナ帝国」

大人になってから改めて見ると子供の頃気づかなかった事がいくつもあった。

中でも1番印象に残ったのがイエスタデイ・ワンス・モアの2人のこの会話だ。

モノで埋め合わせされた心が空っぽの人々

ケン「昔、外がこの町と同じ姿だった頃、人々は夢や希望に溢れていた。21世紀はあんなに輝いていたのに、今の日本に溢れているんのは汚い金と燃えないゴミぐらいだ。これが本当にあの21世紀なのか。」

チャコ「外の人たちは心が空っぽだから、モノで埋め合わせしているのよ。」「だから、いらないものばっかり作って、世界はどんどん醜くなっていく。」

ケン「もう一度、やり直さなければいけない。日本人がこの町の住人達のように、まだ心をもって生きていたあの頃まで戻って。」

さらに最近読んでいた渋沢栄一の論語と算盤でも、同じような文章を見つけた。

渋沢栄一論語と算盤の一文

徳川300年の時代に教育された武士の中には、レベルが高く視野の広い気質や行いの持ち主もまた、少なくなかった。

ところが今日の人のにはそれがない。富は積み重なっても、哀しいかな武士道とか、あるいは社会の基本的な道徳と言うものが、なくなっていると言っても良いと思う。つまり精神教育が全く衰えているのだと思うのである。

物質文明の進歩に微力ながらも全力を注ぎ今日では幸いにも有力な実業家を全国至るところに見るようになった。また、国の豊かさも大いに増大した。ところが何としたことか、人格は明治維新前よりも退歩したと思う。

今から約100年前、1918年に出版された渋沢栄一の本にもイエスタデイワンスモアの2人が言ったことと同じことが書かれていることに気がついたのだ。

今この時代を考えると、私たちの生きる資本主義社会では 大量生産される“モノによって” 満たされた時代を生きてきたようだが、その空虚で果てしない負の連鎖のデメリットに多くの人々が気づき出しているように見える。

なぜ空虚で果てしない負の連鎖なのか

例えば、今の日本では1人の人間でも家具、家電、車や服、電子機器など大小様々なモノを沢山持っている

資本主義社会では沢山のモノが作られ

誰もが給料の多くをモノの支払いに当てている

確かに今の世の中は便利になり、面倒くさいことから解放され、暮らしは楽になったが時間は増えただろうか?

それによって時間ができても、もっとお金を稼ぐための労働時間になったり、ただ浪費をしていないだろうか。

私たちはなんのためにモノを追い求めるのでしょうか?

私たちは、どう生きるべきか?

モノによって豊かになった気がしていた私たちですが、心は欲望まみれになりあるものに気づかず、さらに求める様子はまるで空虚だと思える。

しかし、世界中ではミニマリストや近藤まりさんを中心に断捨離が流行し、私たちが本当に必要な「モノ」を見極めて行こうとする動きがある。また、アメリカでは禅から科学的に進化したマインドフルネスが誕生して自分の心を鍛え、どう生きていくのか考える時代へと変化して始めている。

私たちは従来のように、車を買い、家を買い、家具家電を揃えて、一生の殆どを支払いに追われるライフスタイルから新しい価値観と自由を手に入れ、大量生産大量消費社会からの脱却をして行けるように、個人々の考えを改めていく必要がある。

私たちが目指すべきもの

世界一貧しい大統領として有名なホセ・ムヒカ元大統領のスピーチで同じようなことを分かりやすく、現在どんなことが問題であるのかを具体的に教えてくれた。

「 もしドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車を、インド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。
息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億~80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか? 」

・・・

余計なものを買うためにもっともっとと働いて、人生をすり減らしているのは、 消費が「社会のモーター」となっているからである。なぜなら消費が止まれば経済が麻痺してしまい、経済が麻痺すれば不況というお化けが我々の目の前に姿をからである。
今この生き過ぎた消費主義こそが地球を傷つけ、さらなる消費を促している。商品の寿命を短くし、できるだけ沢山売ろうとする。今の社会は長く使えるものは、あまり作ってはいけない。なぜなら我々はもっと働き、もっと売るために、「使い捨て文明」を支える悪循環の中にいるからである。これは政治問題である。
我々は今までと違う文化のために闘い始めなければならない。石器時代に戻ろう と言っているのではなく、このままずるずると消費主義に支配されるわけにはいかない。私たちが消費主義をコントロールしなければならない 」

・・・

「 発展は幸せを邪魔してはならない。発展は「人類の幸せ」「愛」「子育て」「友人を持つ事」そして「必要最低限のもので満足する」ためにあるべきものなのです。なぜならそれが一番大事な宝物なのだから。環境のために闘うのなら一番大切なのが人類の幸せである事を忘れてはなりません。ありがとう 」

物質文明が発展した現在だが、それも限界にきているように思える。ホセ・ムヒカ元大統領は発展のための一番大事な宝物は「人類の幸せ」「愛」「子育て」「友人を持つ事」そして「必要最低限のもので満足する」ことだと言った。

これは私たちの心、精神を鍛えていくべきという事ではないでしょうか?

ミャンマーで感じた心の豊かさ

私がミャンマーを旅している時、たくさんのミャンマー人の方に優しくして頂いた。

ミャンマーの人々の生活は日本からすると、とても貧しく生活水準も低い。

しかし、彼らはムヒカ元大統領が言っているような本当に大切なものを知っているように感じた。

私が困っていれば助けてくれて、田舎町の朝市に行った時には「ミンガラーバー」と挨拶をすれば、誰もがいい笑顔で挨拶してくれた。

私がお土産にミャンマーのお茶を買った時、そこのおばちゃんは、お菓子や野菜に飲み物まで出してくれて、自分のつたないミャンマー語を一生懸命に聞いてくれて本当に心温まる時間だった。

何故そこまでしてくれるんだろうと不思議に思うくらいミャンマーの人々は優しく親切だったのだ。

ミャンマーの市場にいたのは資本主義的な商売人ではなく、人情や愛を持った人々でお金ではなく心の豊かさを持った人々だったように思う。

優しさを大切に

私はミャンマーを旅する中で何か言い知れぬ焦燥に駆られてスマホのメモにこんな事を書きました。

心のもやもやをスッキリさせたい。思い当たるのは、自分に対する不満。

旅していて人に助けてもらって親切にされた時、感謝の気持ちで一杯になる。

何か少しでも恩返しをしたいと思うけど、ほとんどは感謝だけで終わってしまった。

どんな国でもどんな宗教でもどんな言葉の人でも誰もが沢山の親切をくれる。

貰うだけの自分、感謝しきれないくらいの沢山の感謝。日本にいるときよりも感謝をする。

今、自分の中には誰かの役に立ちたいという、強い気持ち渦巻いていることに気がついた。

支えられてばかりじゃなくて支えれる人になりたい。

1人旅を終えて、自分も社会に何か貢献したいと言う気持ちがより強くなったのだ。

日本でもどこでも自分がどんな時も沢山の人に支えられていたことに気づき、自分自身も社会の中で何かをしたいと言う想いに燃え上がった瞬間だった。

ミャンマーと日本の違いは沢山ありあますが、ミャンマーの方が精神的な豊さを感じたました。

明治維新後の日本では高度な社会の仕組みが整ったことよって便利にはなったが、人と人が優しさで支え合っていた従来の構造がなくなり、資本主義の荒波の中で私たちは本当の目的を忘れてしまったのではないか。

明治維新前や戦後の昭和の人々が目指したのは、みんなが幸せになれる豊かな社会を目指したのではないでしょうか?

私たちが目指すべきなのは、誰かのために何かをしたいと言う優しい気持ちを持つこと、現代の消費主義の中で目的を忘れてはいけない、お金や欲望に惑わされないように心、精神を鍛えていかなければならないと思う。

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